土曜日が好き

土曜日が好きなので

オレという孤独

 

映画「正欲」を観た。


正常位を試みるシーンでの「普通の人も大変だね」の台詞がこの世にある全てのフレーズの中で1番共感できて、地獄を生きた数年前の孤独な自分にまで届き、過去ごと救ってくれた感覚があった。台詞が自分の過去にまで響いてくることがあるのか。


性的指向についての映画というより、個人的には孤独についての映画だった。

だから個人的な孤独の話をしながら

この映画のもつ孤独感が、自分自身の孤独感とどのように共鳴しているのかを探っていく。

 


まずこの登場人物たちと自分自身の共通点として、鬱屈した過去の体験からくる諦観が、他者との関わりや可能性を拒むことがあげられる。

人と人は簡単に分かり合えないよね、なんて次元ではなく、分かってもらおうとすること自体にとてつもない苦痛を強いられる。他者に期待をしても届かないことが当たり前になることで、簡単に心を開けない。

周りの人と同じスタート地点に立つまでにどれだけ心を殺さなければならないのか。自分のなりたい「普通」になるまでの距離があまりにも遠すぎる。次第に「普通」でない自分が人間として明らかに何かが欠落しているように思えて、終わらない自己嫌悪が始まる。オーマイガー。

夜中になると「普通の人間」になれないことへの焦りと他者への妬みと羨ましさが暴発し、同じことばかりグルグル考える。おかしくなった左脳が生み出す思考が自分の尊厳を殺しにかかってくることを、心が拒めない。動悸がする。涙が出る🥲

何よりも辛いのは、全てを諦められれば楽なのに、どうしても「普通」への憧れや欲求だけは殺せないこと。

だから、この辛さが「もう生きていたくない理由」になっているのと同時に、「まだ死ぬわけにはいかない理由」にもなっている。その堂々巡りの惨めさを何年味わって来ただろうか。今すぐ息絶えるような苦しさではないが、朝起きてから眠りにつくまでずっと、緩やかに首を絞められているような慢性的な息苦しさ。


それがヨシダの孤独だった。


不倫をする人もDVをする人も、愛されていた過去はあったはずだ。最低野郎と言われるような人間でも達成可能な普遍的な営み。しかし、結果が出せない自分はその足元にも及ばないというのか。誰のことも不幸にしない代わりに誰のことも幸せにできない無能感。吉田という名の虚無のサイクルの誕生。

モテないことは、「普通」の人にとっては、「髪型を思い切って変えてみよう」や「異性といる時の振る舞いに気をつけよう」などというような即物的実践的課題である。しかし、ヨシダのような人間にとって、モテないということは実存の問題なのだ。つまり、自分が生きていること・存在していること自体の価値に直接関わるような、苦しみを伴う命懸けの問題だったのである。ギャー。

 


だからこそ、「普通の人も大変だね」って

自分と似たような孤独感を持つ登場人物が、ヨシダという孤独に向けてスクリーン越しに言ってくれたことが、何よりもの救いになったのだ。

自分の心の状態を知っている人がいる。

ルーツやバックグラウンドが全く違うからこそ、僕らは同じ孤独で繋がれる。フィクションの中の感情がノンフィクションである自分の心へ流れ出す。僕は君たちの心を知っている。それがたまらなく嬉しい。

 


物語なんていうものは、「どこかであなたが今生きていることを知っているよ」というメッセージが、それを必要とするだれかに伝えられればそれでいいのだと思う。物語が伝えようとする何かを的確に表現するための演出や技術が高いことに越したことはないが、果たしてそこに公正さというものは必須なのだろうか。

 


現代社会における正しさを偏りなく全方面へ配慮された形で伝えるものが教科書であるなら、物語や映画は教科書的である必要はない。フィクションは、「社会」のためではなく「個人」へむけたメッセージを届け、ひたすらに個への共鳴を目指す。「正欲」は、そこに重要な意義を見出している映画なのだと感じた。

 

 

 

というわけで、「正欲」は

吉田の2023年映画ランキングの

第三位に堂々と輝いた✨

おめでとう正欲、おめでとう僕らの人生。